ドバイの旧市街を南北に分けるドバイクリークは海からつながる細長い入り江で、古くから港町として交易を支え、ドバイの街の発展の礎となった場所です。このクリークを挟んで、海に向かって右岸のディラ地区と左岸のバールドバイ地区、ドバイの旧市街の2つの地区が向き合っています。これらの地区の行き来の需要は少なくないものと思いますが思いのほか橋は少なく、気軽な庶民の足として大活躍しているのが渡し船「アブラ」です。
ドバイに来るのは2度目ですが、前回は飛行機の乗り継ぎ時間およそ6時間を利用して、かの有名な世界一の高層ビル、ブルジュ・ハリファを足元にあるドバイモールから見上げただけなので、ゆっくり街を見るのは今回が初めてです。1週間少々の短い滞在のうちまとまって自由な時間がとれるのは金曜の夕方から土曜いっぱいだけ、この限られた時間でドバイの何を見るかが最も重要な課題となりますが、水辺の風景好きとして何をさしおいても訪れてみたかったのがドバイクリークで、乗り物好きとして何としても乗ってみたかったのがアブラでした。
カフェの先にはUAE国旗をはためかせる木造ボートが停泊する船溜まりがあり、そこがアブラの乗り場でした。誰もが頭に描くきらびやかな高層ビルが建ち並ぶドバイのイメージとは正反対の、なんとものどかな風景です。 アブラの語源は アラビア語の 'abara' 、英語で言うと 'to cross' の意味の言葉だそうです。
ボートの真ん中に縁側のような一段高くなった段がしつらえられていて、乗客はここに外向きに座って乗り、その段の中心あたりにはくりぬかれた穴があって、そこに船頭さんが入って操船するというレイアウトです。運航には特に時刻表があるわけではなく、座席がある程度埋まったら出発するという仕組みのようです。桟橋の列にならび船に乗ると、そっちから詰めて座って、と船頭からインストラクションがあり、言われたとおりに奥の席に座りました。運賃は船頭さんに支払います。1回1ディルハム、およそ30円。きっぷはなく現金で1コイン渡せばそれでおしまいです。
船が走り出すと心地よい風が頬にあたりはじめました。昼間の気温が灼熱なだけに、夕暮れの水辺の涼しい風の気持ちよさが際立ちます。岸を離れるにつれ視界が広がり見えてくる暮れ行く街並みとクリークの眺め。この時間にここに来てよかった!水路をたくさんのボートが行き交うさまは、まるでヴェネツィアの大運河のよう。すぐそこの岸辺のアラブっぽい建物や遠くに見える近代的なビル、そして水面をちょこまか走り回るアブラ。古さと新しさが交じり合うドバイの景色が素晴らしいです。渡し船というので目の前の岸に渡るだけかと思っていましたが、船は進路をクリークの奥へと向け、岸と平行に少し進んだ対岸の船着き場に到着しました。時間にしておよそ5分か10分ほどですが、美しい景色、頬撫でる風、木造船の風情にすっかり、充実した気持ちのよい船旅でした。到着したのはデイラ地区のデイラオールドスークという名前の船着き場。スークとは市場のこと、特にスパイスを売る店が多いことからスパイススークの呼び名もあるというデイラオールドスークは道を渡ってすぐのところのようです。せっかく来たので、デイラオールドスークを歩いてみようと思っていたのですが、見上げた空がまた一段階美しさを増しているのを見るや、もう少し水面から夕暮れの景色を楽しみたいとの気持ちが強く芽生え、再びアブラの乗客となったのでした。いま来た航路を引き返すだけですが、さっきよりも夜の度合いが濃くなった景色はこれまた美しく、新鮮です。最初に出発したバールドバイの船着き場に戻ってくると、空は鮮やかなマジックアワーの輝き。船から降りて、しばし夕暮れのクリークの風景に見とれていました。エンジン音や舳先が波を切る音、水辺の匂い、頬で感じる風に美しい景色、五感で楽しむアブラの船旅は、古くから変わらぬドバイの様子を伝えてくれる、魅力的で楽しい乗り物でした。